サラリーマンのための歴史 外様と維新

前回の記事が比較的好評だったので、今回はファンも多い幕末の流れを中心に『外様大名』とは何かについてビジネス用語を使って説明したいと思います。前回もそうでしたが、あくまで歴史の流れを知ってもらうために、現代のビジネスに置き換えた表現をしていますので、細部については必ずしも正確ではない点をご了承ください。


サラリーマンのための歴史 頼朝と義経

前々から、日本のビジネスマンは歴史小説や時代劇の影響が強すぎて、歴史について極めてバイアスのかかったイメージを持っていたり根拠のない俗説を信じていたりということを危惧していて、ビジネスマン向けに歴史をビジネスの用語・概念を用いて説明してみたいと考えていました。
ちょっと時間が出来たので、まずは頼朝と義経の関係から鎌倉幕府の性質を説明したいと思います。


「名前」から世界を見てみる

先日、「沖縄の基地問題は『沖縄』という名前が使われているうちは良いが、これが『琉球』といわれだすと問題の深刻さが一段階進むかもしれない」といったような事を酒の席で話したら、なんだか妙に納得してもらえたので、国や地域の「名前」から世界を見てみました。


中東問題を理解するための補足「ドゥライム族」のについて

昨日書いたブログが思いのほか好評で、多くのアクセスがあったことに興奮しております。そんな中、News Picksのコメントで「図表がもっとほしい」という声がありましたので、いくつか図表を交えて、中東問題をもう少し理解するための補足をしてみようと思います。

シリアの歴史

2015年11月13日にパリで悼ましいテロ事件が発生しました。年初のシャルリー・エブド襲撃事件もあり、シリアをめぐるテロ事件の多くはフランスで起きている印象があります。中東の歴史というとイギリスの影響が強い印象がありますが、自分の復習含めて、改めてフランスとシリアがどのような関係を構築してきたのかを整理してみました。

「歴史修正主義」とは何か


先日、ユネスコのが登録されたということで、僕の愛用しているNewsPicksにおいても大きく議論になっていました。その中で、識者同士が「歴史修正主義」について熱くやりあっていたのですが、どうも歴史学における歴史修正主義というものの定義が曖昧であるがゆえに歴史学を学んだ人と、そうでない人の間において根本的な理解の相違があるように感じました。そこで、僕自身まだ歴史学とは何かを学んでいる途上ではありますが、歴史修正主義とは何か、自分なりの考えを整理してみました。

夫婦別姓に関して思うこと

いつも愛用しているNewsPicksでハフィントンポストの「夫婦別姓問題」に関する記事のPickがあり、結構なコメントがついていました。僕は「夫婦別姓」については論じるまでもなく賛成ですが、「夫婦で異なる名字」については反対です。それよりも「氏名」以外の名前の持ち方を認めるべきというとこが僕の考えの骨子です。

今更ながら僕が安保法制に反対する理由

何だかもう過去の話だと割り切っていたのですが、いまだに安保法制についての反対運動が盛んですね。せっかくなので、自分の考えを個々で整理しておきたいと思います。

僕は歴史好きをやっている手前、物事を長いスパンで見る傾向にあります。なので、今回の安保法制も50年、100年のスパンで見て適切かを考えてしまいます。また、国家と自分とを同一視していません。国が滅びても、自分と家族の生活が守れていれば良いと考える極めて利己的で冷淡な人間です。「お国のため」というロマンに浮かれることがありません。

そんな僕から見て、今回の安保法制には大きく2つの問題点が考えられます。この2点を解消しない限り、僕は安保法制には反対を唱えます。

集団的自衛権のパートナーが制限されていない。

1つ目は集団的自衛権を行使するパートナーが制限されていない点です。安保法案を一言一句目を遠したわけでもなければ司法試験に合格したわけでも無いので、法解釈に誤りがあるかもしれませんが、僕がざっと目を通した限り、集団的自衛権の行使の範囲を「アメリカ合衆国軍に限る」や「国連軍に限る」といった制限をする法律は見当たりませんでした。

改正法の中には、「武力攻撃事態等及び存立危機事態におけるアメリカ合衆国等の軍隊の行動に伴い 題名 我が国が実施する措置に関する法律」であったり、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」といった法律はありますが、「集団的自衛権の行使範囲を制限する法律」が見当たりませんでした。

このパートナーの制限は非常に重要であると考えています。かつて日本は「中華民国汪兆銘政権」という傀儡政権を作り上げました。そして、「中華民国の正当な政府に協力して、国内にいる反政府ゲリラ(国民党、共産党)を駆逐する」という建前をとりました。ですので、実は日中戦争といわれているものの、正式な戦争関係にあったわけではありませんでした。

同様に将来において覇権主義を標榜する団体が世論を誘導して、再び海外への進出を試みた際に、その地に傀儡政権を樹立させ、それを保護する名目で集団的自衛権を行使して軍事侵攻が可能な仕組みになったのではないかと危惧しています。アメリカはCIAを使って、よくこういう工作をやっていますよね。イラクやウクライナ、コソボなどで。

今現在は、そんな心配ないでしょう。でも50年後も大丈夫だって言い切れますか?でも、今回の安保法制って変更しなければ50年後も100年後も有効なんですよね。

武力行使の要件が閣議で決定できる。

もっと危惧しているのでは、「武力の行使の新三要件」です。これ、立憲主義がどうとか言う以前の問題として、日本国憲法の今回である「平和憲法」を完全に無効化した、恐るべき内容であると感じています。

というのも、今回の安保法制において、各法律が改正されている中では、各種条件に「存立危機事態」という表現を用いています。存立危機事態において日本国は武力行使が許されているとなっています。では、その「存立危機事態」とはどういう事態なのでしょうか?それを定義しているのが2014年に閣議決定された「武力の行使の新三要件」です。

憲法でも法律でもなく、閣議で決定されているんです。ということは、閣議で変更が出来るということです。50年後の覇権主義内閣において、閣議決定で「武力の行使の新新三要件」と称して以下のように変更することが出来てしまうということです。

(1)我が国、又は 我が国と密接な関係にある地域に対する武力 攻撃が発生する明確な危険があり、これにより我が国の存立が脅か され、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が 根底から覆される重大な懸念があること 

(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を 守るために他に適当な手段がないこと

(3)必要最限度の実力行使によって短期間での事態可決をはかること


もちろん、そうならないために、国民が選挙によってきちんとした政治家を選ぶことが大切ですね。

国民国家と王族

いわゆるイスラム国の台頭やグローバルカンパニーとの徴税権の争いなど2010年代に入って国民国家が相対的になってきたと考えています。しかしながら、政治学などの社会科学は国民国家を前提として発展してきたがために、新しい時代の価値観を図りかねているのではないか、と個人的に感じています。そこで、国民国家ってそもそも何なんだろうか?という問題提起を行いたいと思います。

天皇家と日本人
日本では天皇家は日本人であり、日本国民も日本人です。王族と国民とが同じ民族であるのが当然と考えられています。この考え方は天地開闢以来の常識であったわけではなく、明治新政府が国民国家を建設するにあたって、天皇を国家の象徴として祭り上げ、臣民=日本国民としての教育・宣伝を行ってきた成果によるものです。

江戸時代までの日本は武士が政治を行っており、国民にとって天皇というのは存在するらしいが、実態が良くわからないものでありました。多くの国民は自分を日本人と考えていたわけではなく、薩摩人、土佐人あるいは多摩人といった形で、自分の生活する領域でもって自己の民族的アイデンティティを持っていました。彼らにとって支配者というのは結局のところ余所者であり、それが誰であろうと多くの民衆には関係の無いものでした。

江戸時代の藩だと薩摩の島津家、加賀の前田家のように一つの家系が同じ地域を長年にわたって支配してきた地域が著名となりますが、実際には多くの領地が頻繁に支配者を変えていました。たとえば、今のさいたま市岩槻区にあたる岩槻藩の場合、高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、藤井松平家、小笠原家、永井家、大岡家と異なる領主により支配を受けていました。こうなると岩槻の人々は自分たちと領主とを同じ共同体の人とは考えなくなります。

この状況でもし、幕府が一部の藩を外国人に与えていたらどうなったでしょうか?たとえば、幕末の医師シーボルトがもし追放されていなかったら、どこかにシーボルト家を藩主とする藩が出来ていたかもしれません。この時、その地域の農民たちは自分たちが異民族による支配を受けると考えてでしょうか?

という仮定の話をすると大げさに思えるかもしれません。しかし、これが実際に起きたのがインドです。1765年にイギリス東インド会社はムガール帝国との協定よりベンガル州の太守となりました。このことが後のイギリスのインド支配への布石となっていくわけですが、この時にインド民族の危機を認識した人はいませんでした。なぜなら、ムガール帝国そのものがモンゴル人やトルコ人などの異民族によって支配されている国家だったからです。先ほどの岩槻の例でいえば、岩槻の支配者はたまたま三河という比較的近い距離だったにすぎず、民衆の意識としては余所者が支配しているという点において同様でした。イギリスの支配はインドに限らず、同様な形で中国や中東でも支配権を確立していきます。


切り取られた帝国
世界四大文明と呼ばれた地域を支配していた、清、ムガール帝国そしてオスマントルコは奇しくも、いずれも異民族による征服王朝でした。そのため支配者と非支配者との間に同じ国民としての連帯感が生まれにくい状況でした。イギリスはその隙を突いて帝国を切り取っていきます。明治新政府の人々は、その現状を目の当たりにし、「日本国民」としてのアイデンティティの確立が無ければ国家の統一は難しいとの危機感を持ち、天皇に現人神としての神聖性を与えて国家神道によって
日本国民を生み出しました。

一方で、先ほどの3帝国はどうなったでしょうか?イギリスあるいはフランスなどと組んだ各地の有力者が列強の軍事力を背景に独立を果たしていきます。しかし、そこには国民国家としてのアイデンティティはありませんでした。

オスマントルコの事例でいけば、イギリスの後援を背景にエジプトを独立させたムハンマド・アリーはギリシャ出身のアルバニア人ですし、ヨルダン王国もまた元々はメッカの太守でした。オスマントルコ崩壊の中でのイギリスやフランスの暗躍が今の混乱の元凶となったのは周知の事実です。
中国においても清朝の崩壊と共に多数の軍閥が群雄割拠する時代となりました。外モンゴルはソ連の軍事支援の元で独立し、内モンゴルは日本の支援での独立を試みるも頓挫、東トルキスタンやチベットにおいても分離独立運動は失敗しました。インドは既に3つの国に分離され、その過程で多くの人命が失われました。いずれの国も国家の分裂や再統合という激動に見舞われることとなりました。


西洋各国と王族
と、日本やアジアの国々の事例を紹介してきましたが、「いやいや、そういうのは前近代の話でしょ。」と思われる方も多いと思いますので、ここで西洋各国の王族を振り返ってみましょう。

まずはイギリスを見てみましょう。今のウィンザー朝はドイツのハノーバーから来た一族です。その前はオランダの支配者であるオラニエ公ウィレム3世を挟んで、スコットランドのステュワート朝がありました。更にその前はフランスのアンジュー伯を祖とするアンジュー朝が、その前は同じくフランスのノルマンディーから来たノルマン朝が支配していました。つまるところ、イングランドの歴史の多くは、そして今現在も、外国人が王位についてきたのです。まあ、これもハノーバー朝が出来たのが1714年ですから、国民国家が形成される以前の話と切り捨てることが出来るかもしれません。

そこで、次はデンマーク王家の話です。今のデンマーク王家であるグリュックスブルク家は1863年にクリスティアン9世が前王フレゼリク7世が死去した際に、遠縁にあたるということでデンマーク王家を継承することとなりました。時に19世紀半ばで、日本では幕末の志士たちが活躍していた時代です。その息子のゲオルギオス1世はギリシャ国王になりました。これは先代のギリシャ国王が議会と対立して追放され、その後任としてゲオルギウス1世が招聘されたためです。この時点で、彼はギリシャとは何の縁もゆかりもありません。さらに1905年にはノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消して独立しました。この時に、クリスティアン9世の孫がホーコン7世としてノルウェー国王となりました。既に20世紀になった話です。

つまり西洋社会においても国王や貴族というのは、その血筋の高貴さによって選ばれるものであり、その国家の民族とは何の関係も無いということです。これはベルギー国王がザクセン王家から来ていること、スペイン国王はフランス・ブルボン家の出身であることなどからも挙げられます。


国民国家と徴兵制
で、結局僕が何を言いたいかと言うと、「国民国家」という概念は国家の支配者が国民よく馴致するための方便ではないかということです。

そもそも、国民国家が生まれたのはフランス革命期です。フランス革命によってブルボン王朝を滅ぼしたことにより、諸外国との緊張関係が生まれました。国王が支配する国において軍隊とは国王の軍隊です。しかし、フランス革命によって王家が無くなったフランスでは外国と戦う軍隊がありませんでした。しかも、国民の多くは革命政府だろうが、ブルボン王朝だろうが、支配者に興味はありません。革命政府の指導者たちは、自己の政権を守るために「フランス国民」という概念を持ち出し国民のための軍隊によって外国勢力を排除しようと考えました。

これは明治初期の日本が「日本人」という概念を生み出し、軍隊を「藩主の私有物」から「天皇の軍隊」と変貌させ、そのための実行力として徴兵制を導入したことからも見て取れます。

今、集団的自衛権がもてはやされ、国を守ることの重要性が喧伝されています。しかしながら、日本民族であることと、日本国民であることは同一なのでしょうか?僕は日本民族であり、日本国民でありますが、父は日本民族であり、満洲国民でした。国家は滅びても人生は続きます。果たして、国家と自己とを同一視することが一般民衆にとって適切な考え方なのかは、非常に疑問に感じています。国家を運営する側のエリート階級の人々が自己と国家を同一視することは十分に理解できますが、一般大衆は彼らのアジテーションをもっと冷淡に見つめる必要があるのではないでしょうか。





百人一首1 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣では 露にぬれつつ

百人一首(Wikipediaより)
今回は百人一首の最初の2首、天智天皇と持統天皇のものを紹介します。どちらも天皇な上に、日本史でも馴染みの深い人物ですので、歌を暗記している人も多いのではないでしょうか。

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣では 露にぬれつつ
天智天皇
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
持統天皇


百人一首7 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

百人一首(Wikipediaより)

遣唐使に行かなかった、小野篁と菅原道真の歌を紹介しましので、今後は実際に遣唐使に渡った人の歌を紹介します。阿倍仲麻呂は有名人ですが、改めて彼の人生を振り返ってみようと思います。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
阿部仲麻呂

百人一首24 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

百人一首(Wikipediaより)

「菅家」って書いてあると誰だかわかりませんが、歴史上の超有名人菅原道真公の一首です。小野篁がついに果たせなかった遣唐使を廃止したことで「894に戻そう遣唐使」で有名な人物ですね。この歌では「神のまにまに」なんて言っていますが、後世では彼本人が神様になってしまいましたね。受験のときには欠かせません。この菅原道真と平将門は怨霊から神様に転進し、現代人にも多くの影響を与えていますね。

このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
菅家

百人一首11 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

百人一首(Wikipediaより)
昨日の藤原忠通の「わたの原」つながりで、同じ「わたの原」から始まる一首です。作者の小野篁は数々の伝説を持ちすぎる素晴らしい男です。歴史好きやマンガ好きには結構有名な人物かと思いますが、世間ではそうではないですよね。小野小町の祖父というとこの一首は彼の人生に照らしあわせると非常に味わい深いです。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
参議篁

百人一首76 わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

百人一首(Wikipediaより)
昨日紹介した意識高い系僧侶慈円の父親藤原忠通の一首を紹介します。名前が長くてぱっと見誰だか分かりませんが、書道をやってる人にはピンとくる名前じゃないでしょうか。

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
法性寺入道前関白太政大臣

百人一首95 おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖

百人一首(Wikipediaより)
そういえば、坊主の歌を全然紹介していませんでしたので、今回は坊主から一首。百人一首好きには蝉丸こそ一番だとは思いますが、百人一首に登場する坊主の中で一番著名なものは慈円だと思います。

おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖
前大僧正慈円

百人一首40 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

百人一首(Wikipediaより)
ここ数日、藤原摂関家中心に歌を紹介してきましたが、そろそろネタが尽きてきてしまったので、少し時代をさかのぼり、一気に2首を紹介します。

しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
平兼盛

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠 

百人一首56 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

百人一首(Wikipediaより)

今日も続けて中宮定子の女御の一首です。当時一番の和歌の名手にて恋い多き女性の代表です。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
和泉式部


百人一首59 やすらはで 寝やましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

百人一首(Wikipediaより)
昨日に引き続き中宮彰子の女房から『栄華物語』の著者赤染衛門の一首を紹介します。
やすらはで 寝やましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
赤染衛門

百人一首57 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

百人一首(Wikipediaより)
ここ数日、藤原道長と敵対する人たちの歌を取り上げてきました。そうすると、なんだか道長が悪者のように見えてきてしまうので、これからしばらくは道長の娘中宮彰子に仕えた女性たちの歌を取り上げていこうと思います。まずは。かの有名な紫式部の歌です。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部

百人一首68 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

百人一首(Wikipediaより)
昨日は身分違いの恋に破れた藤原道雅を取り上げましたが、一方で二人の恋仲を裂いた三条院とはどんな人物だったのでしょうか?

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
三条院

百人一首63 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

百人一首(Wikipediaより)
昨日の儀同三司母の歌の続きです。藤原道長との権力争いに敗れた中関白家、さてその後はどうなったんでしょうか。
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
左京大夫道雅

百人一首54 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの命ともがな

百人一首(Wikipediaより)

シンプルに読めば恋の歌ですが、その裏には摂関政治全盛期の藤原氏内部での熾烈な権力争いがありました。この「儀同三司」とは准大臣に相当する中国の役職名です。息子の藤原伊周が准大臣だったことから、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)という名前が残ることとなりました。

忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの命ともがな
儀同三司母

百人一首93 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の つなでかなしも

百人一首(Wikipediaより)
花の金曜ですね。今回は少しかなしげな鎌倉右大臣の一首です。鎌倉右大臣って有名なあの人のことなのですが、みなさまご存知でしょうか?
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の つなでかなしも
鎌倉右大臣

百人一首42 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

百人一首(Wikipediaより)
そろそろ皆さんに飽きられたかな?と思いつつ今日の一首。清少納言の父、清原元輔の一首です。東日本大震災で一時期話題になったので、ご存知の方もいるかもしれません。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
清原元輔

百人一首60 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

百人一首(Wikipediaより)

今日は打って変わって、女流歌人の一首を。小式部内侍は本人も優れた歌人ながら、母の和泉式部が著名な歌人として平安貴族の中で知れ渡っていました。そんな二世歌人ならではの機転の利いた一首です。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立
小式部内侍

百人一首77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

百人一首(Wikipediaより)

連休もあと一日、明日は後悔無く過ごしたい第四弾です。今回も天皇の一首をチョイスしました。崇徳院、「祟る」なんて字が入っている天皇はちょっと気になりませんか?
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳院

百人一首13 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

百人一首(Wikipediaより)

さて調子に乗って第三弾までやってきました。今回は日本の天皇制の変遷を理解する上でも役立ちそうな陽成院の一首です。この一首そのものの出来も味わい深いのですが、なぜ陽成天皇ではなく陽成院なのかを知ると日本史にもっと興味がわくかと思います。
筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院

内容
この歌は比較的シンプルな内容です。筑波山の男体山、女体山および、そこに流れる男女川(みなのがわ)を男女の中に見立てた恋の歌で、「筑波山に流れる男女川が小さな水滴が溜まって川になるのように、私とあなたとの間のちょっとした思い出が積もって、今では想いが深くなりました」というとてもストレートなラブレターです。婚約者に宛てた一首ですので10代後半頃の青春味付けあふれる一種です。とまぁ、この歌だけ見ると普通のラブレターなわけですが、この背景を知ると益々面白い一首なのです。

ネオニート
この歌を歌った陽成院は「人生始まったと思ったら終わってた」という人物です。わずか9歳で天皇となったかと思ったら政局に翻弄されて15歳で譲位を迫られます。15歳といえば現在では中学3年生、ちょうど自分の将来の進路などを考え始めたりする頃ですが、すでにそのときに隠居生活を余儀なくされました。後を次いだのは大叔父(祖父の弟)の光孝天皇55歳です。以後、80歳で崩御するまで65年間もの間、上皇として隠居生活をしていました。この上皇在任期間は歴代天皇の中でぶっちぎりのトップです。
陽成院は結婚したもの隠居してからです。この一首が譲位前か後かは、僕の不勉強で知りませんが、元服後であったのは間違いないと思いますので譲位が現実的だったことは間違いないと思っています。そんな、陽成院の婚約者はなんと光孝天皇の娘でした。自分を追い落とすことで傍流から天皇位に昇り詰めた男の娘が婚約者だったわけです。しかも思春期の面倒くさい時期に。きっと、最初は反発していたかと思います。そんな陽成院ですが、婚約者との思い出を少しずつ経ていく中で、ようやくこの歌の境地に至ったわけです。
当時の習いとはいえ、将来性のかけらも無い男と婚約せざるを得ず、その婚約者からは嫌われていた光孝天皇の娘綏子内親王からすると、この一種をもらった時の喜びはいかほどだったかと思います。その後、2人は綏子内親王が薨去するまでの40年ばかりを仲睦まじく過ごしたんじゃないかなと思っています。

天皇と院
さて、この一首を今回取り上げたのは、内容に面白みがあることもさりながら、百人一首では作者を「陽成天皇」ではなく、「陽成院」としていることに注目してほしかったからです。これより前に百人一首に登場する天皇は「天智天皇」、「持統天皇」と天皇がついています。これより後は「光孝天皇」を除いて、「三条院」「後鳥羽院」「順徳院」と天皇ではなく、院が付いています。
○○天皇というものは「諡号」と呼ばれています。諡の字は訓読みで「おくりな」と読まれるとおり、死者に対して、その人の功績をたたえて贈る名前です。その名前付けには、その人の功績が考慮されたものとなります。だから、「天智」「天武」「聖武」といった演技の良い文字の天皇が多く出てきます。また、呼び名の最後が天皇で終わる形式ものを天皇号と呼びます。つまり、律令国家の成立期は諡号・天皇号でした。
一方で、○○院というものは「追号」と呼ばれています。これはただ単に死者に名前をつけただけのもので、その人の住居や墓陵に関連したもので呼ばれます。また、院で終わる呼び方を院号と呼びます。「醍醐」「鳥羽」「伏見」など京都の地名を持つ天皇が多くなります。面白いのでは、歴代天皇には、一条、二条、三条、四条、六条という名の天皇がいるのですが、なぜか五条だけ抜けています。この諡号から追号への変化は、あるときを境にスパッと変わったのではなく、51代平城天皇から58代光孝天皇まの間に徐々に変化していきました。この間の天皇は諡号と追号が混ざっていますが形式としては天皇号となっていました。これが醍醐院から、追号・院号の組み合わせが確立していきました。
で、ここで疑問がわく人もいるかもしれません。なぜ先代の陽成院が追号・院号で、次代の光孝天皇が天皇号なのでしょうか。これは崩御した順番が即位の順とは異なるからです。陽成院は譲位したとき15歳、そこから65年も生き長らえていますから、その間の天皇を崩御した順に並べると光孝、醍醐、宇多、陽成となります。なので、光孝天皇までが天皇号による諡号となり、醍醐院からが院号による追号となりました。
この後、諡号・天皇号が復活するのは、1000年後の幕末、光格天皇の代になります。1840年に崩御した光格天皇は宮廷文化の復活に熱心な天皇であり、諡号も1000年ぶりに復活させました。当時は幕末で日本近海に多くの外国船が出没している時期であり、国際関係における危機感から日本の良さを再発見しようという流行のある時期でした(今の日本に似ていますね)。そんな中で1000年ぶりに復活したのでした。
そんな光格天皇肝いりの諡号復活もたった3代でおしまい。明治天皇以降は元号を持って追号とするということになり、再び追号の時代となりました。なお、明治といえば維新開国、欧米化の印象が強いですが、一世一元と呼ばれる君主の在任期間中には年号を改めないというルールはお隣清国から輸入したアイデアとなっています。
さて、ではなぜ現代ではすべての天皇を院号ではなく、天皇号で呼ぶのでしょうか。これは、大正時代に「すべての追号も院号ではなく、天皇号にする」とお上が布告したからです。なんと、20世紀に入ってから、過去の天皇含めて追号を改めたんですね。なので、古典を読む際に、天皇は多くの場合は院号で呼ばれているということを理解していくと良いかと思います。
この、明治以降の天皇の名称の変遷については、次回記事にしたいと思います。今の歴代天皇が決まったのって、結構人為的な作業があったんですよ。

百人一首62 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

百人一首(Wikipediaより)

前回の記事が思いのほか好評だったので、浮かれて第二弾です。今回は枕草子で有名な清少納言の一首です。この一首も、その背景を知ることで、いっそう深く楽しめる一首です。

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
清少納言



内容
この歌の内容を理解する前段として、「逢坂の関」を知っておく必要があります。逢坂の関は京都と大津との間にあり、東日本から平安京へ赴くには必ず通らなければならない交通の要衝でした。ですので、当然、関所があります。昔の関所というのは日中は開いていますが、夜になると閉じてしまうものでした。また、「逢坂」という漢字から「男女が逢う」という意味で短歌に登場するようになりました。
それを踏まえて、この歌の内容を説明すると「まだ夜なのに鶏の鳴きまねをして朝だと勘違いさせるような謀略をもってしても、私はあなたとは男女の仲にはなりません」というお断りの一首になるのです。では振られたのは誰かというと、藤原行成という男性です。

孟嘗君
この一首ができるまでの経緯は『枕草子』にも記載がありますので、非常に詳しくわかっています。その前に、この一首を深くしるために『史記』に登場する孟嘗君という人物を知っておく必要があります。孟嘗君とは中国東部の「斉」という国の王族で多くの食客を雇っていました。普通は学者や武芸の達人などを雇うものですが、孟嘗君は盗みの名人や物まね名人まで雇っていました。
ある日、西の大国「秦」が孟嘗君をスカウトしにきました(斉の王族を秦がスカウトするというのもおかしな感じですが、当時はよくありました。後には楚の王族ながら秦の相国になった後に楚王になった昌平君もいます)。孟嘗君は喜んで秦に赴いたのですが、秦に着くと秦王は心変わりして孟嘗君を殺害しようとします。
孟嘗君は秦から斉へ逃げるのですが、途中には函谷関という秦の難関がありました。朝未明に函谷関にたどり着いた孟嘗君一行でしたが、まだ日は昇っていないので関所はしまったままです。朝を待っていては追手の軍隊に追いつかれてしまいます。そこで、出てくるのが鶏の鳴きまねの達人です。彼の鳴き真似に勘違いした門番が関所を開けてしまったので孟嘗君一行は無事に追手から逃げ切ることができました。

経緯
さて、話はもどって藤原行成と清少納言です。二人は男女の違いはありますが古い友人です。ある晩も一緒に飲んでいたのですが行成が「明日は早いからそろそろ帰るわ」と早めに帰ってしまいます。清少納言としては古くからの友人とのせっかくの機会なので朝まで語り合おうという思っていたのに、早く帰ってしまったのが不満だったところに、翌朝の手紙で「長居しようと思っていたのに、鶏の鳴く声にもう朝だと勘違いして帰ってしまいました」という、すばらしく白々しい内容が送られてきました。
これに対して、清少納言は「孟嘗君が雇っていた鳥の泣きまねの達人でもいましたか?」と返すと、行成はさらに「孟嘗君が開けたのは函谷関ですが、私が開けたいのはあなたとの逢坂の関だ」とまたはぐらかす内容が返ってきました。そこで、この一首が生まれたわけです。
ということを考えると、これは本気の告白でも、本気のお断りメールでもなく、気の置けない友人同士の冗談半分の語らいかなと思っています。ずいぶんと知的ですが(笑)

清少納言
この一首の背景には清少納言が『史記』に精通していたということがあります。当時は男女で学ぶべきことは異なっていましたから、女性が漢籍(中国の古典)に詳しいというのは決してほめられたものではありませんでした。普通の女性であれば、学ぶ機会もありませんでしたので、清少納言はほかの女性とは異なる学問的背景を持っていたことになるかと思います。それが、『枕草子』という後世に伝わる傑作を作り上げたのかと思います。
一方で相手の藤原行成は高級官僚でしたので、史記などの古典に精通してることが求められたらんでしょうね。よく考えれば、史記って平安貴族からみても1000年前の作品なんですよね。

感想
この一首が生まれた時期は清少納言が二度目の結婚をした後かと思うのですが、それなのに夫以外の男性と艶やかなメールのやりとりをしていたというのは平安時代の貴族文化というのは、現代人が思っている以上にオープンだったんだなと感じています。
そして男友達とのやりとりが知的過ぎるあたり、当時の宮廷では浮いてたんじゃなかろうか?と余計な心配もしてしまいます。


今日のおすすめ
清少納言の枕草子は日本人のもののあはれに対する価値観を振り返るのには欠かせない名作古典だと思います。

枕草子

百人一首97 藤原定家 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

百人一首(Wikipediaより)

百人一首は今でこそカルタとして有名ですが、元々は藤原定家が百人の名人から一首ずつ選らんで作り出した歌集でもあります。この百人一首に記された和歌のすばらしさを少しでも広められればと考えていたので、僕の心に残っている和歌をいくつかピックアップして順場に紹介していきたいと思います。
まずは、百人一首の編者である藤原定家の一首です。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
権中納言定家

幕末についての整理~その2

前回からの続き。徳川幕府についての説明に続けて、幕末の状況について整理していきます。ここで幕末とは嘉永6年のペリー来航と定義したいと思います。

幕末について整理~その1

自分の勉強のために幕末史を学び直していますが、ちょうど今年の大河ドラマは吉田松陰の物語ということで、ドラマをより深く楽しめるよう幕末史について整理してみました。歴史に疎い人にも分かりやすいようビジネスに置き換えて説明してみようと思います。