民主主義を支えた1000人の敗者たち

昨日の総選挙で民主党が政権の座を降り、
再び自民党が政権与党となることが決まりました。
今日からはメンバー一新した国会議員たちによる
日本のかじ取りに注目があるまるわけですが、
僕としては、是非とも日本を良くしようと志したものの
夢叶わず破れていった人たちにも声援を送りたいです。

今回の総選挙では現行憲法下では最多の1504人が立候補しました。
衆議院の定数は480ですので、約1000人が落選したことになります。
そのうち民主党の現職200人を除いたほとんどは新人です。

新人の中には労働組合などの組織内候補者として担ぎ出された人
政治家を「家業」として親の地盤を継いだだけの人
比例票を掘り起こすために立候補するのが仕事だった人
も、もちろん居たとは思いますが、
その多くは「自分が日本を良くするんだ」という
熱い思いを胸に秘めていたと信じています。

政治家に対して「どの政治家もダメだ」とか
「どうせ何も変わらない」であるとか
「候補者は政治家という肩書は欲しいだけ」といった
不信感を持つことも自由ですし、
もっとアレコレと評論家ぶって
上から目線で政治家を批判するのも自由です。

しかし、政治家という職業が他の職業が違うのは
25歳以上の日本国民であれば等しくチャンスがあるということです。
「どの政治家もダメ」ならば自分がなってみればいいわけです。

なのに多くの人が、自分には別の仕事がある、であるとか
政治家になんかなれるわけがない、とかチャレンジすることもなく
やらない理由を大層にみつけてしまっています。

かくいう僕自身も選挙に立候補した場合の負担の大きさに
今の自分が選挙活動をやりとおせるとは思えません。
でも、一人でも多くの人が投票することだけでなく
自分が立候補することを本気で考えてみれば
泡沫候補と呼ばれるような人であったとしても
どれだけの覚悟と家族のサポートがあるか気づくと思います。

ですので、力不足で当選することが出来なかった人たちに対して
そのチャレンジに最大限の敬意を表したいと思います。

また、僕も日本の政治家の質は決して高くないと感じています。
そして、それは政治家になろうとする人の層の薄さに起因してると考えます。

スポーツなどでは当然言われている事ですが、
トップのレベルを上げるためにはすそ野の広さが不可欠です。

そう考えると日本の政治家のすそ野は極めて乏しいものです。
今回の選挙では定数480に対して1500人の立候補ですので
当選倍率はたったの3倍にしかなりません。
僕の中学受験の競争倍率以下です。

日本の政治家の質を上げるには、その裾野の広がりは不可欠で
そうなると今まで以上に落選候補者を生み出すことになります。
もちろん、その前に政党から公認を受けるという競争もありますので
立候補することすらできない人たちも多く出てきます。
(政党数が少なければ少ないほど立候補も高い壁ですね)

自民党は公募制を敷きつつも世襲議員が多いというのは
この公募に応募する人材が少ない事、世襲議員を打ち負かせるほどの
ポテンシャルを持った人材はなおのこと少ない事が想像されます。

こういった立候補の壁を打ち破って、落選するリスクを取りながらも
果敢にチャレンジする人材が増えてきてこそ
日本の政治は良くなると考えていますので
今回の選挙でおしくも落選した人たちのチャレンジこそ
きっと将来の日本に役立つ日がくると信じていますし
そういった人たちのチャレンジを応援していきたいと思います。

君は、世界を迎え撃つ準備が出来ているか?


「君ワク」に続けて、田村氏の新作を読みました。
前作は、どちらかと言えば学生や若手社会人に向けて
世界に出て行けと発破を掛けていたのに対して
こちらは30代、40代といった中堅世代をターゲットに
具体的に世界で戦うに必要な準備について書いてありました。

前作を読んだ時には、自分はもうワクワクできないのか
とちょっぴり残念に思ったりしたのですが、
本作は自分にぴったりのメッセージが詰まっており
読んでいて、よりワクワクすることができました。

特に、田村氏が歴史や古典を学ぶ重要性を訴えていたのに強く共感しました。
日本のビジネスマンは現代ビジネスに関する知識は豊富ですが
こと歴史に関しては「信長はグローバル、家康はドメスティック」
とかいうイメージだけの議論を平然としだすくらいに
歴史や古典に対して中途半端な知識しか持っていません。
世界史ともなればなおさらです。

世界は、ここ200年くらいを除いてずっと中国とインドの時代であったり
西洋の近代哲学の発展には東洋哲学の影響があったりといった
僕が世間に訴えかけたい内容を影響力を持つ人が説明してくれるのは
非常に嬉しく感じました。

前作はアイビーリーグじゃないと学歴じゃないであるとか
学生は24時間ハードに学んで遊んで恋愛してとか
世界の本当にトップの人たちの行動を紹介していましたが
本作は僕のような凡人に対して、日々どう努力すればよいのか
これからの世界に対してどう準備をすべきであるのか
といった点について、現実的な手法を提言してくれており
本を読み終わったらすぐに実践してみようと思えるものが多く
自分の意識をぐっと持ち上げてくれる感じがしました。

また、田村氏の講演を聞いて、彼も小さい子どもをもつ父親であり
時間と仕事をやりくりして子どもと触れあう時間を作っている
ということを知ったことで彼の意見を受け入れやすくなった
というのも前作を読んだ時点との違いです。

仕事一辺倒で家庭の事なんて意識しなければ
何かに向かって一生懸命努力するなんて非常に簡単ですからね。

中国のパクリについて思う事

最近、中国への出張が多いのですが、その中で中国での模倣製品について
日本で今まで報じられていた内容から様子が変化してきていることを感じています。
そして、その変化を日本企業はまだまだ感じ取れていないことに
実は結構危機感を抱いています。
ということで、僕が感じている中国の模倣事情をまとめておきます。

昨年、AppleがiPhone4Sを発表した直後に中国ではiPhone5が発売された
なんていう面白ニュースが日本でも伝えられたりして
相変わらず、中国は模倣製品の天国だなと感じていたわけですが、
それはどちらかといえばネタニュースの色合いが強くて
中国の模倣製品の本質ではありませんでした。

もっと注視すべき模倣製品は他にありました。
その一例が最近注目している、Xiaomi Phoneという携帯電話です。
この携帯電話は外見もiPhoneにそことなく似ていますが
重要なのは中身もまるまるiPhoneを模倣していることです。

つまり、「粗悪な」模倣品が出回っているのではなく
「同じ性能」の模倣品が市場に出回りだしたわけです。
外見をコピーしている製品であれば、模造品として取り締まれますが
性能をコピーされた場合には、取締りのしようがありません。

これが実現できるのは、中国が世界の工場として
多くの工業製品の部品を製造してきたという実績によるものです。
簡単に言えば、iPhone5をバラして中にあるパーツのメーカーを確認し
同じメーカーから部品を調達して組み立てればよいわけです。
同じパーツが手に入らなくても、そこは中国ですから
同じ性能のパーツなら容易に手に入れる事ができます。

しかも、iPhoneをただ模倣するだけでなく
中国マーケット向けにカスタマイズした機能を盛り込んでいます。

iPhoneなどは価格の中に研究開発費であるとかのれん代が含まれてるわけですから
その分を差し引けばiPhoneと同じ性能の電話が半分の価格で製造できちゃいます。

ということで、中国の模倣製品は外見のコピーが怖いのではなく
製品そのものの性能や中身をまるまるコピーしてしまう事です。
これは、外見のコピーと違って模倣と訴える事も出来ません。

ということは日本企業は本当にコアな部分はきちんと内製し
それ以外の部分は模倣される前提でビジネスを進めないといけない
という当たり前のことを中国でもやらないとダメだってことですね。

でも、その日本企業がコアだと考えているところが
中国だとかインドだとか、その他の新興国では
「過剰品質・機能な部分」として切り捨てられちゃったりしてるんですよね。
それが問題だ。