終盤に来て平清盛が面白い!

出だしの「王家」呼称問題に始まり、視聴率低迷ばかりが話題になると
どうも世間ではイマイチな感じの評判となっている大河ドラマ『平清盛』ですが
この終盤に来て非常に面白い展開となってきています。

父親の苦労も知らないで勝手に悩んでいる少年時代だったり
無用に摂関家にかみつく青年時代だったりと
あまり主人公に共感できない感じでストーリーが進んで来たのですが
終盤になって主人公の清盛が遂に悪役となってきたに及んで
もうとにかく平家以外の勢力を応援してくなってくるんですよ。

特に頼朝は第三部になってからずーっと廃人のようになっていましたが
それが政子の空気を読まない活躍でだんだんに瞳に力が入ってきて
遂には平家打倒の狼煙を上げるっている流れを見てきているので
俄然応援したくなってくるんですよね。

頼朝については、これまで義経目線で語られる事が多くて
登場時点では既に挙兵済みで富士川の戦いからなんてのもあったのですが
軟禁状態だった時期をここまで丁寧に描いたのは珍しいと思います。

一方の清盛は出世して、自分の目指す国作りをすればするほど
昔からの仲間や一族たちが抜け落ちていくという演出は
まさに「驕る平氏も久しからず」という言葉がぴったりの様子です。

思えば第一話の最初のシーンも頼朝でした。そして語りも頼朝です。
なぜ頼朝なのか?という疑問がありましたが
ここへ来て実質的な主人公は頼朝です。

これから頼朝がいかにして立ち上がり、
石橋山での敗戦を潜り抜け、関東に独立政権を築きあげ
平家を壇の浦に沈め、平泉を滅ぼして鎌倉幕府を作るのか。

頼朝の死後には杏演じる政子が承久の乱に際して
「天皇ご謀反」の名台詞をどう見せてくれるのか、
いろいろとこれからの展開が気になります。

驕る平氏を頼朝にバシバシ追い詰めていってもらいたい
という期待でいっぱいなのですが、もう12月になってしまうので
ものすごく尻切れトンボ泣展開で終わってしまいそうです。

正直なところ、来年の大河はこのまま清盛を続けてもらって。
承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐に流されて
初回の白河上皇の天下との対比によって古代の貴族社会が終わって
中世の武士の世の中が完成したというストーリーにしてほしいですね。
そうすることで、武士の世の先駆けとなった清盛の存在感というのが
目立ってくるんじゃないでしょうか。

尖閣諸島を巡る中国側の主張について

何に付いて議論するときであっても
まずは相手の意見を理解する事が
建設的な議論を行うための第一歩
というのが僕の考えなので
尖閣諸島の問題についても
中国の考えをきちんと理解すべく
中国の書店で尖閣に関する書籍を
購入してみました。

日本の書店で尖閣諸島などの
中国問題に関する書籍を探すのは
とっても容易なのに対して、
中国の書店で日本に関する本は
全然見つかりませんでした。
書店のコーナーの多くは教育、投資、文化の書籍が占めていて
尖閣諸島の本を探すのにも一苦労でした。
日本での報道では中国人にとって日本のウェイトが大きいようですが
実際にはほとんど興味がないようです。

さて、日本での尖閣諸島の領有権を巡る主張と同じように
この書籍でも15世紀の書物に釣魚島の名前が出てくるから
古くから中国の領土であったのだという古文書探しから
話は始まってくるわけですが、僕には興味はありません。

古文書が有効になってくるのは1895年に
日本が尖閣諸島を「先占」したことが有効かどうか
という事項の検証に用いられるためでしかありません。
しかし、どの文書をどう読んでみても1895年に
中国も琉球も日本も尖閣諸島を領有していたとは思えません。

どうしても時系列で説明したいがために古文書を先に出していますが
「先占」の話題は領有権を巡る本質的な論点ではないと考えています。
中国側は日本ほど尖閣の領有についての主張をどうするのか
あまり論点が定まっていないように感じられます。

重要なのは、そのあとの2点です。
それは「馬関条約(下関条約)」と「カイロ宣言」です。

1895年4月に締結された日清戦争の講和条約である馬関条約において
「割让臺灣島、澎湖群島與臺澎附屬各島嶼」と定められ
台湾・澎湖島および周辺の諸島
中国から日本に割譲されることとなりました。

そして、サンフランシスコ講和条約で
「日本放棄對台灣、澎湖等島嶼的一切權利、權利名義與要求。」
で、これらの島々の権利を放棄すると宣言しています。
サンフランシスコ講和条約を中国は締結していませんが
この条文のベースとなったカイロ宣言には国民党政権が参加しており
この条文は明らかに馬関条約にて日本に割譲した土地を
中国に返還するという意図で記載されています。

で、ここが議論のポイントになるわけです。
つまり、「馬関条約」で割譲された島の中に尖閣諸島は含まれるのか
それとも含まれないのかどちらなのかということです。

中国は尖閣諸島は「付属各島嶼」に含まれると主張して
日本は含まれないと主張しているわけです。

なので、日本の尖閣諸島を巡る議論の中に
「1920年に中国から尖閣諸島に漂着した中国人を救助したと
 感謝状が届いたから中国が認めた」
というのを良く目にするのですが、
1895~29145年の50年間は日本領であったのは
中国も認めているので、その間のことは意味が無いんですよね。

日本側の主張は尖閣諸島の領有は日清戦争とは関係ないところで
1895年1月に無主の土地であったものを領有化したというものです。
しかし、この日付は正に日清戦争の最中だったので、中国側に「
日清戦争中に日本が占領した中国の領土を
1月に一方的に領有宣言し、馬関助役で正式に割譲された」
という主張をさせる隙を与えてしまっています。

日本としては10年以上前から古河辰四郎による開発が進んでいて
実質的に日本の管理下にあったわけですから、
何も、こんなもめそうな時期に領有化するんじゃなくて
日清戦争が終わった後にでも正々堂々と清国に
「ここはだれの土地でもなかったから日本のものにしますよ」
と通達して領有化すれば良かったと思うのです。

領有宣言したときには、どこにも通達しなかったけど
日本と戦争中だった清国が気づかなかったから先占成功なんだ
というのは、ちょっとみっともないですよね。

さらに、講和条約までの時間の流れを追ってみると
1月中旬:尖閣諸島に日本の標識を立てる事を内務大臣に指示
1月末:来日した清国の交渉団との会談を拒否
2月中旬:威海衛占領
3月上旬:遼東半島制圧
3月19日:李鴻章来日し講和交渉が始まるも停戦はせず
3月下旬:台湾制圧
3月末:停戦

という感じで、停戦までにどこまで侵略できるかという動きの中で
尖閣諸島も領有を宣言したと言えなくもない状況ですので
あんまり、過去の事をほじくり返してしまうと
かえってボロが出そうな気もしています。

ってことで、今現在は日本が実質支配しているわけですから
あまり過去の事はあれこれ言わないでおいて
とにかく話題を逸らして、中国人に尖閣のことは忘れてもらう
っていうのが一番の得策かもしれませんね。

華北と華南はやっぱり違う

今年のゴールデンウィークには山西省にある「平遥古城」に行ってきたのですが、
つい先日、上海郊外の世界遺産「留園」で有名な「蘇州古城」も見てきました。

「南船北馬」などに代表されるように中国も北部と南部では
その文化が大きく異なっているといわれています。
とはいえ、そういった違いはなかなか外国人には分かりにくいですが
幸運にも短期間で華北と華南を代表する歴史都市を訪問できたので
中国の南北の文化の違いに気づく事ができました。

平遥古城

まずは華北の街並みを残す
世界遺産『平遥古城』です。

今の街が作られたのは明代ですが
清代には東洋一の金融街として
大きく発展しました。
その後、民国期には衰退を迎え
開発の波から取り残されたため
見ごたえのある街並みが残りました。

この写真を見ても分かるとおり、気候は乾燥していて非常に埃っぽいです。
なんとなく靄がかかっていますが、これは黄砂です。
日本でも最近は話題になる黄砂ですが、正に平遥は黄土高原の上にあり
黄砂の発生場所となっている地域にあたります。

ちなみに、皮肉なことに黄砂はここらへんから舞いあがるので
現地では砂が積もって大変なことにはならなかったりしています。

建物はレンガ造りですが
表面に漆喰などは塗らずに
レンガの表面を磨いて
外壁を飾りたてています。

四合院作りと呼ばれる
中庭に向いた建物のため
外側には窓などは少なく
個々の家が要塞のように
しっかりとした作りです。

表通りは商店が多いですが
一歩路地裏に入ると
そこは要塞都市のような
壁が聳える景観でした。

外から見ているだけでは
何だか味気ない景観ですが
内部は外とは大分違います。


敷地の中は外観と違い
奇麗に飾り立てられています。

僕は、この地味な外観と
立派な敷地内という対比は
とっても中央アジア的だ
と感じています。

遠くモロッコまで通じる
中央アジアの遊牧民文化の
東の端に居るように感じました。



蘇州古城

一方で華南の蘇州です。
こっちは写真が少ないのですが
この一枚で違いは明確です。

そう、「水」が多いんです。
土ばかりだった華北に比べ
さすがに上海周辺は
水路が縦横に巡っています。
まさに「南船北馬」でした。

世界遺産の『留園』も
庭園の中心に池があり
水が生活を取り囲んでいます。

そして建物がオープンです。
風通しが良くなるように
建物の両側に窓があります。


また、建物の柱と両脇の壁はレンガ造りですが正面のファサードは木造です。
時間を経て黒く変色した柱や外壁に付けられた彫刻は、
どことなくチベットやヒマラヤを思い起こさせるようなデザインとなっており
平遥が中央アジアの遊牧民文化の東端であるならば
蘇州はインド文化の東端と言えるような雰囲気を持っていました。

で、もう少し視点を広げてみると、中国からの文化的影響を見た時に
気候が寒冷な朝鮮半島は陸続きの華北の文化が強く
温帯モンスーンの特徴の強い日本は華南の文化が強いように感じられました。

やはり中国は大きいですね。国家として一つだから、民族が同じだからといって
文化は一つとは限らないという気持ちを持って見てみると
何かと新しい発見がありそうです。