民主主義を支えた1000人の敗者たち

昨日の総選挙で民主党が政権の座を降り、
再び自民党が政権与党となることが決まりました。
今日からはメンバー一新した国会議員たちによる
日本のかじ取りに注目があるまるわけですが、
僕としては、是非とも日本を良くしようと志したものの
夢叶わず破れていった人たちにも声援を送りたいです。

今回の総選挙では現行憲法下では最多の1504人が立候補しました。
衆議院の定数は480ですので、約1000人が落選したことになります。
そのうち民主党の現職200人を除いたほとんどは新人です。

新人の中には労働組合などの組織内候補者として担ぎ出された人
政治家を「家業」として親の地盤を継いだだけの人
比例票を掘り起こすために立候補するのが仕事だった人
も、もちろん居たとは思いますが、
その多くは「自分が日本を良くするんだ」という
熱い思いを胸に秘めていたと信じています。

政治家に対して「どの政治家もダメだ」とか
「どうせ何も変わらない」であるとか
「候補者は政治家という肩書は欲しいだけ」といった
不信感を持つことも自由ですし、
もっとアレコレと評論家ぶって
上から目線で政治家を批判するのも自由です。

しかし、政治家という職業が他の職業が違うのは
25歳以上の日本国民であれば等しくチャンスがあるということです。
「どの政治家もダメ」ならば自分がなってみればいいわけです。

なのに多くの人が、自分には別の仕事がある、であるとか
政治家になんかなれるわけがない、とかチャレンジすることもなく
やらない理由を大層にみつけてしまっています。

かくいう僕自身も選挙に立候補した場合の負担の大きさに
今の自分が選挙活動をやりとおせるとは思えません。
でも、一人でも多くの人が投票することだけでなく
自分が立候補することを本気で考えてみれば
泡沫候補と呼ばれるような人であったとしても
どれだけの覚悟と家族のサポートがあるか気づくと思います。

ですので、力不足で当選することが出来なかった人たちに対して
そのチャレンジに最大限の敬意を表したいと思います。

また、僕も日本の政治家の質は決して高くないと感じています。
そして、それは政治家になろうとする人の層の薄さに起因してると考えます。

スポーツなどでは当然言われている事ですが、
トップのレベルを上げるためにはすそ野の広さが不可欠です。

そう考えると日本の政治家のすそ野は極めて乏しいものです。
今回の選挙では定数480に対して1500人の立候補ですので
当選倍率はたったの3倍にしかなりません。
僕の中学受験の競争倍率以下です。

日本の政治家の質を上げるには、その裾野の広がりは不可欠で
そうなると今まで以上に落選候補者を生み出すことになります。
もちろん、その前に政党から公認を受けるという競争もありますので
立候補することすらできない人たちも多く出てきます。
(政党数が少なければ少ないほど立候補も高い壁ですね)

自民党は公募制を敷きつつも世襲議員が多いというのは
この公募に応募する人材が少ない事、世襲議員を打ち負かせるほどの
ポテンシャルを持った人材はなおのこと少ない事が想像されます。

こういった立候補の壁を打ち破って、落選するリスクを取りながらも
果敢にチャレンジする人材が増えてきてこそ
日本の政治は良くなると考えていますので
今回の選挙でおしくも落選した人たちのチャレンジこそ
きっと将来の日本に役立つ日がくると信じていますし
そういった人たちのチャレンジを応援していきたいと思います。

君は、世界を迎え撃つ準備が出来ているか?


「君ワク」に続けて、田村氏の新作を読みました。
前作は、どちらかと言えば学生や若手社会人に向けて
世界に出て行けと発破を掛けていたのに対して
こちらは30代、40代といった中堅世代をターゲットに
具体的に世界で戦うに必要な準備について書いてありました。

前作を読んだ時には、自分はもうワクワクできないのか
とちょっぴり残念に思ったりしたのですが、
本作は自分にぴったりのメッセージが詰まっており
読んでいて、よりワクワクすることができました。

特に、田村氏が歴史や古典を学ぶ重要性を訴えていたのに強く共感しました。
日本のビジネスマンは現代ビジネスに関する知識は豊富ですが
こと歴史に関しては「信長はグローバル、家康はドメスティック」
とかいうイメージだけの議論を平然としだすくらいに
歴史や古典に対して中途半端な知識しか持っていません。
世界史ともなればなおさらです。

世界は、ここ200年くらいを除いてずっと中国とインドの時代であったり
西洋の近代哲学の発展には東洋哲学の影響があったりといった
僕が世間に訴えかけたい内容を影響力を持つ人が説明してくれるのは
非常に嬉しく感じました。

前作はアイビーリーグじゃないと学歴じゃないであるとか
学生は24時間ハードに学んで遊んで恋愛してとか
世界の本当にトップの人たちの行動を紹介していましたが
本作は僕のような凡人に対して、日々どう努力すればよいのか
これからの世界に対してどう準備をすべきであるのか
といった点について、現実的な手法を提言してくれており
本を読み終わったらすぐに実践してみようと思えるものが多く
自分の意識をぐっと持ち上げてくれる感じがしました。

また、田村氏の講演を聞いて、彼も小さい子どもをもつ父親であり
時間と仕事をやりくりして子どもと触れあう時間を作っている
ということを知ったことで彼の意見を受け入れやすくなった
というのも前作を読んだ時点との違いです。

仕事一辺倒で家庭の事なんて意識しなければ
何かに向かって一生懸命努力するなんて非常に簡単ですからね。

中国のパクリについて思う事

最近、中国への出張が多いのですが、その中で中国での模倣製品について
日本で今まで報じられていた内容から様子が変化してきていることを感じています。
そして、その変化を日本企業はまだまだ感じ取れていないことに
実は結構危機感を抱いています。
ということで、僕が感じている中国の模倣事情をまとめておきます。

昨年、AppleがiPhone4Sを発表した直後に中国ではiPhone5が発売された
なんていう面白ニュースが日本でも伝えられたりして
相変わらず、中国は模倣製品の天国だなと感じていたわけですが、
それはどちらかといえばネタニュースの色合いが強くて
中国の模倣製品の本質ではありませんでした。

もっと注視すべき模倣製品は他にありました。
その一例が最近注目している、Xiaomi Phoneという携帯電話です。
この携帯電話は外見もiPhoneにそことなく似ていますが
重要なのは中身もまるまるiPhoneを模倣していることです。

つまり、「粗悪な」模倣品が出回っているのではなく
「同じ性能」の模倣品が市場に出回りだしたわけです。
外見をコピーしている製品であれば、模造品として取り締まれますが
性能をコピーされた場合には、取締りのしようがありません。

これが実現できるのは、中国が世界の工場として
多くの工業製品の部品を製造してきたという実績によるものです。
簡単に言えば、iPhone5をバラして中にあるパーツのメーカーを確認し
同じメーカーから部品を調達して組み立てればよいわけです。
同じパーツが手に入らなくても、そこは中国ですから
同じ性能のパーツなら容易に手に入れる事ができます。

しかも、iPhoneをただ模倣するだけでなく
中国マーケット向けにカスタマイズした機能を盛り込んでいます。

iPhoneなどは価格の中に研究開発費であるとかのれん代が含まれてるわけですから
その分を差し引けばiPhoneと同じ性能の電話が半分の価格で製造できちゃいます。

ということで、中国の模倣製品は外見のコピーが怖いのではなく
製品そのものの性能や中身をまるまるコピーしてしまう事です。
これは、外見のコピーと違って模倣と訴える事も出来ません。

ということは日本企業は本当にコアな部分はきちんと内製し
それ以外の部分は模倣される前提でビジネスを進めないといけない
という当たり前のことを中国でもやらないとダメだってことですね。

でも、その日本企業がコアだと考えているところが
中国だとかインドだとか、その他の新興国では
「過剰品質・機能な部分」として切り捨てられちゃったりしてるんですよね。
それが問題だ。

終盤に来て平清盛が面白い!

出だしの「王家」呼称問題に始まり、視聴率低迷ばかりが話題になると
どうも世間ではイマイチな感じの評判となっている大河ドラマ『平清盛』ですが
この終盤に来て非常に面白い展開となってきています。

父親の苦労も知らないで勝手に悩んでいる少年時代だったり
無用に摂関家にかみつく青年時代だったりと
あまり主人公に共感できない感じでストーリーが進んで来たのですが
終盤になって主人公の清盛が遂に悪役となってきたに及んで
もうとにかく平家以外の勢力を応援してくなってくるんですよ。

特に頼朝は第三部になってからずーっと廃人のようになっていましたが
それが政子の空気を読まない活躍でだんだんに瞳に力が入ってきて
遂には平家打倒の狼煙を上げるっている流れを見てきているので
俄然応援したくなってくるんですよね。

頼朝については、これまで義経目線で語られる事が多くて
登場時点では既に挙兵済みで富士川の戦いからなんてのもあったのですが
軟禁状態だった時期をここまで丁寧に描いたのは珍しいと思います。

一方の清盛は出世して、自分の目指す国作りをすればするほど
昔からの仲間や一族たちが抜け落ちていくという演出は
まさに「驕る平氏も久しからず」という言葉がぴったりの様子です。

思えば第一話の最初のシーンも頼朝でした。そして語りも頼朝です。
なぜ頼朝なのか?という疑問がありましたが
ここへ来て実質的な主人公は頼朝です。

これから頼朝がいかにして立ち上がり、
石橋山での敗戦を潜り抜け、関東に独立政権を築きあげ
平家を壇の浦に沈め、平泉を滅ぼして鎌倉幕府を作るのか。

頼朝の死後には杏演じる政子が承久の乱に際して
「天皇ご謀反」の名台詞をどう見せてくれるのか、
いろいろとこれからの展開が気になります。

驕る平氏を頼朝にバシバシ追い詰めていってもらいたい
という期待でいっぱいなのですが、もう12月になってしまうので
ものすごく尻切れトンボ泣展開で終わってしまいそうです。

正直なところ、来年の大河はこのまま清盛を続けてもらって。
承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐に流されて
初回の白河上皇の天下との対比によって古代の貴族社会が終わって
中世の武士の世の中が完成したというストーリーにしてほしいですね。
そうすることで、武士の世の先駆けとなった清盛の存在感というのが
目立ってくるんじゃないでしょうか。

尖閣諸島を巡る中国側の主張について

何に付いて議論するときであっても
まずは相手の意見を理解する事が
建設的な議論を行うための第一歩
というのが僕の考えなので
尖閣諸島の問題についても
中国の考えをきちんと理解すべく
中国の書店で尖閣に関する書籍を
購入してみました。

日本の書店で尖閣諸島などの
中国問題に関する書籍を探すのは
とっても容易なのに対して、
中国の書店で日本に関する本は
全然見つかりませんでした。
書店のコーナーの多くは教育、投資、文化の書籍が占めていて
尖閣諸島の本を探すのにも一苦労でした。
日本での報道では中国人にとって日本のウェイトが大きいようですが
実際にはほとんど興味がないようです。

さて、日本での尖閣諸島の領有権を巡る主張と同じように
この書籍でも15世紀の書物に釣魚島の名前が出てくるから
古くから中国の領土であったのだという古文書探しから
話は始まってくるわけですが、僕には興味はありません。

古文書が有効になってくるのは1895年に
日本が尖閣諸島を「先占」したことが有効かどうか
という事項の検証に用いられるためでしかありません。
しかし、どの文書をどう読んでみても1895年に
中国も琉球も日本も尖閣諸島を領有していたとは思えません。

どうしても時系列で説明したいがために古文書を先に出していますが
「先占」の話題は領有権を巡る本質的な論点ではないと考えています。
中国側は日本ほど尖閣の領有についての主張をどうするのか
あまり論点が定まっていないように感じられます。

重要なのは、そのあとの2点です。
それは「馬関条約(下関条約)」と「カイロ宣言」です。

1895年4月に締結された日清戦争の講和条約である馬関条約において
「割让臺灣島、澎湖群島與臺澎附屬各島嶼」と定められ
台湾・澎湖島および周辺の諸島
中国から日本に割譲されることとなりました。

そして、サンフランシスコ講和条約で
「日本放棄對台灣、澎湖等島嶼的一切權利、權利名義與要求。」
で、これらの島々の権利を放棄すると宣言しています。
サンフランシスコ講和条約を中国は締結していませんが
この条文のベースとなったカイロ宣言には国民党政権が参加しており
この条文は明らかに馬関条約にて日本に割譲した土地を
中国に返還するという意図で記載されています。

で、ここが議論のポイントになるわけです。
つまり、「馬関条約」で割譲された島の中に尖閣諸島は含まれるのか
それとも含まれないのかどちらなのかということです。

中国は尖閣諸島は「付属各島嶼」に含まれると主張して
日本は含まれないと主張しているわけです。

なので、日本の尖閣諸島を巡る議論の中に
「1920年に中国から尖閣諸島に漂着した中国人を救助したと
 感謝状が届いたから中国が認めた」
というのを良く目にするのですが、
1895~29145年の50年間は日本領であったのは
中国も認めているので、その間のことは意味が無いんですよね。

日本側の主張は尖閣諸島の領有は日清戦争とは関係ないところで
1895年1月に無主の土地であったものを領有化したというものです。
しかし、この日付は正に日清戦争の最中だったので、中国側に「
日清戦争中に日本が占領した中国の領土を
1月に一方的に領有宣言し、馬関助役で正式に割譲された」
という主張をさせる隙を与えてしまっています。

日本としては10年以上前から古河辰四郎による開発が進んでいて
実質的に日本の管理下にあったわけですから、
何も、こんなもめそうな時期に領有化するんじゃなくて
日清戦争が終わった後にでも正々堂々と清国に
「ここはだれの土地でもなかったから日本のものにしますよ」
と通達して領有化すれば良かったと思うのです。

領有宣言したときには、どこにも通達しなかったけど
日本と戦争中だった清国が気づかなかったから先占成功なんだ
というのは、ちょっとみっともないですよね。

さらに、講和条約までの時間の流れを追ってみると
1月中旬:尖閣諸島に日本の標識を立てる事を内務大臣に指示
1月末:来日した清国の交渉団との会談を拒否
2月中旬:威海衛占領
3月上旬:遼東半島制圧
3月19日:李鴻章来日し講和交渉が始まるも停戦はせず
3月下旬:台湾制圧
3月末:停戦

という感じで、停戦までにどこまで侵略できるかという動きの中で
尖閣諸島も領有を宣言したと言えなくもない状況ですので
あんまり、過去の事をほじくり返してしまうと
かえってボロが出そうな気もしています。

ってことで、今現在は日本が実質支配しているわけですから
あまり過去の事はあれこれ言わないでおいて
とにかく話題を逸らして、中国人に尖閣のことは忘れてもらう
っていうのが一番の得策かもしれませんね。

華北と華南はやっぱり違う

今年のゴールデンウィークには山西省にある「平遥古城」に行ってきたのですが、
つい先日、上海郊外の世界遺産「留園」で有名な「蘇州古城」も見てきました。

「南船北馬」などに代表されるように中国も北部と南部では
その文化が大きく異なっているといわれています。
とはいえ、そういった違いはなかなか外国人には分かりにくいですが
幸運にも短期間で華北と華南を代表する歴史都市を訪問できたので
中国の南北の文化の違いに気づく事ができました。

平遥古城

まずは華北の街並みを残す
世界遺産『平遥古城』です。

今の街が作られたのは明代ですが
清代には東洋一の金融街として
大きく発展しました。
その後、民国期には衰退を迎え
開発の波から取り残されたため
見ごたえのある街並みが残りました。

この写真を見ても分かるとおり、気候は乾燥していて非常に埃っぽいです。
なんとなく靄がかかっていますが、これは黄砂です。
日本でも最近は話題になる黄砂ですが、正に平遥は黄土高原の上にあり
黄砂の発生場所となっている地域にあたります。

ちなみに、皮肉なことに黄砂はここらへんから舞いあがるので
現地では砂が積もって大変なことにはならなかったりしています。

建物はレンガ造りですが
表面に漆喰などは塗らずに
レンガの表面を磨いて
外壁を飾りたてています。

四合院作りと呼ばれる
中庭に向いた建物のため
外側には窓などは少なく
個々の家が要塞のように
しっかりとした作りです。

表通りは商店が多いですが
一歩路地裏に入ると
そこは要塞都市のような
壁が聳える景観でした。

外から見ているだけでは
何だか味気ない景観ですが
内部は外とは大分違います。


敷地の中は外観と違い
奇麗に飾り立てられています。

僕は、この地味な外観と
立派な敷地内という対比は
とっても中央アジア的だ
と感じています。

遠くモロッコまで通じる
中央アジアの遊牧民文化の
東の端に居るように感じました。



蘇州古城

一方で華南の蘇州です。
こっちは写真が少ないのですが
この一枚で違いは明確です。

そう、「水」が多いんです。
土ばかりだった華北に比べ
さすがに上海周辺は
水路が縦横に巡っています。
まさに「南船北馬」でした。

世界遺産の『留園』も
庭園の中心に池があり
水が生活を取り囲んでいます。

そして建物がオープンです。
風通しが良くなるように
建物の両側に窓があります。


また、建物の柱と両脇の壁はレンガ造りですが正面のファサードは木造です。
時間を経て黒く変色した柱や外壁に付けられた彫刻は、
どことなくチベットやヒマラヤを思い起こさせるようなデザインとなっており
平遥が中央アジアの遊牧民文化の東端であるならば
蘇州はインド文化の東端と言えるような雰囲気を持っていました。

で、もう少し視点を広げてみると、中国からの文化的影響を見た時に
気候が寒冷な朝鮮半島は陸続きの華北の文化が強く
温帯モンスーンの特徴の強い日本は華南の文化が強いように感じられました。

やはり中国は大きいですね。国家として一つだから、民族が同じだからといって
文化は一つとは限らないという気持ちを持って見てみると
何かと新しい発見がありそうです。

ノマドについて思う事

ちょっと前まで「ノマド」が素晴らしいと礼賛されていたかと思えば、
最近は批判が花盛りな「ノマド」という働き方について
ちょっと考えてみました。

プリンシプルのない日本を読んで

今回の出張のお供に白洲次郎氏の著書を買いました。
白洲次郎氏といえば戦後の日本を支えた偉人ということで
このところ僕の周辺で何かと話題となっていましたので
是非とも氏の考えを知りたくて買いました。

で、読んでみて一番の感想は「疲れた~!」です。
何しろ、この書籍の90%が批判なんです。
悪い言い方をすると「老人の説教」です。
僕はどっちかというと常に批判される事が多い人間なので
こういった批判中心の本はとっても疲れます。
逆に老人の説教大好きだという人には絶好の本だと思います。

さて、この書籍の感想ですが
「その通り!」と思う事が半分、「そりゃ違うだろう」と思う事が半分でした。

まず、どこが「その通り」と思うかといえば、
この本に書いてある批判のほぼ全てです。
もうね、全ておっしゃる通りなんですよ。

しかも恐ろしい事に、50年前の日本を批判しているはずなのに
現代の日本に置き換えても、そのまま通用しちゃうくらいなんです。
役人が偉そう、だとか東電がロクでもないとか
「あれ?これって今年出版されたんだっけ?」と間違えるくらいに
指摘している対象が現代にもそのまま存在しているんです。

もう、コメンテーターとか批評家とかいらないから
「白洲氏曰く・・・」で最近の政治や社会の問題を批判すればOK
っていうぐらい物事を的確にとらえています。

じゃあ、どこが「そりゃ違うだろう」と思う所かと言えば
この批判が50年前だということですね。
戦後の日本社会を見て「プリンシプルのない日本」と批判した白洲氏ですが
そのプリンシプルのない日本が、その後の高度経済成長を経て
世界第2位の経済大国となり、一時期は「Japan As No.1」などと言われていたわけです。

ということは、日本と言う国は白洲氏のいうプリンシプルが無くても
かなりの成果を出してくる事が出来たわけですし、
この20年が停滞しているといったところで、
経済が破たんした訳でもないし、街に餓死した遺体が散乱しているわけでもないです。

つまり、現代を生きる我々は、白洲氏のいう「プリンシプルのない日本」を
今でも賛同して日本社会を批判するのではなく、
白洲氏の理解していないところでプリンプルがあるのではないか、
あるいはプリンシプルなんて無くても日本がやってこれているのはなぜか
というところを深く考えなければならいと感じています。

まあ、そもそも「プリンシプル」っていう言葉が日本で普及していないし
それにぴったりくる日本語も存在していないあたりに
そもそも日本にはプリシプルなんてないままに1500年くらい過ごしてきた
っていうのが僕の考えですけどね。

なんで、プリンシプルが無いという批判をする前に
プリシプルに代わる何が日本人の行動理念となっているのかを詳らかににして、
日本社会の理念に照らし合わせて正しい行いかそうでないかを批判することが
これからの日本を変えていけるのではないかと考えています。

ということで、「そりゃ違うだろ」というのは白洲氏の発言ではなくて
白洲氏の価値観を現代に持ってきて、現代社会を批判することに対して
「そりゃ違うだろ」と思ったわけでした。

東京ステーションホテルに泊まってきました。

東京駅丸の内駅舎のリニューアルに
伴って、こちらもリニューアルした
新しい東京ステーションホテルに
早速宿泊してきました!

宿泊したのはパレスサイドの
スーペリアルツインの部屋です。
予約したのが直前だったため
一番安い部屋はすでに満室でした。
部屋にはWiFiが通っているので宿泊客は無料で利用ができます。
パスワードはフロントに問い合わせると教えてもらえます。
大文字と小文字のどちらかかはきちんと確認しましょう。

もちろん優先LANもありますし、デスクにコンセントも容易されています。
コンセントはA型のみなので、外国人利用者は注意が必要ですね。
駅舎自体の設計は100年前のため
各部に古い建物の特徴があります。
まず、廊下の天井の低さ。
今時こんなに低いホテルというのは
滅多に見かけないと思いますが
この低さが旅情を醸していて
なんともワクワクさせてくれました。

ただ、上の写真にあるとおり、
廊下の天井は低くても
部屋の天井は十分な高さがあり
部屋の中で狭苦しいといった
閉塞感は全く感じませんでした。

この廊下で一つ困ったことは
エレベーターごとに停止階が異なり
目的階ごとにエレベーターを探す
ということをしないと行けない点です。

駅舎とホテルを両立させているので色々と制約のある中で
苦心してホテルの設計をしたんだなと思わせてくれるのは楽しいのですが
ロビーに出るのに一苦労したりして、ちょっと面倒でした。

それと子連れには注意なのですが、ホテル内にオムツ交換台は無さそうでした。
レストラン脇やエントランスのトイレにはみんなのトイレも見つかりませんでしたし
男子トイレにはオムツ交換台どころか子どもを乗せる椅子もありません。
ここらへんはメインターゲットがビジネス客だから仕方ないかなと
諦めていたところではありますが、おむつ替えがやっぱり不便ですね。
ベッドの上は交換中にやらかしたりしないか不安ですし。

あと、建物内部はリニューアルされたばかりの新築の匂いがしたのですが
なんと喫煙室ですら、まだ新築の匂いがしていました。
もしかすると、まだ誰も煙草を吸っていないのかもしれません。
こんなにおいの喫煙室を体験できるのは今のうちだけかも(笑)

バスルームはこんな感じです。
バスタブとシャワーブースが別なので
家庭のお風呂のように使えます。
ホテルの場合はバスタブの上に
シャワーが付いていて
洗面台との仕切りはカーテンとかで
落ち着かないことが多いのですが
このバスルームはリラックスできて
とても気に入りました。

ちなみに、照明も調節できるので
暗めにして長風呂でリフレッシュ
なんてことも出来ました。

また、写真には写っていませんが、座面の高い椅子が置いてあり
高齢者の方も安心して入浴ができるようになっていました。
まだ歩けない赤ん坊を抱っこしての入浴にも便利です。
部屋からの景色です。
夜になったら夜景がきれいかな
と思っていたのですが
想定外なことに正面が真っ暗です。
皇居はライトアップされませんね。

フロアも3階と低いので
そんなに遠くまでは見通せず
景色は見せ場では無かったです。


それよりも駅前ロータリーに出て、行幸通りの方を真正面に見据えてから
ぐるっと一周、体を回転させて駅前を見渡してみると
全体的に調和のとれた日本の表玄関が出来上がったことに
感動を覚えるんじゃないかと思います。
再開発で懸念があったJPの本社ビルもとても素晴らしいです。

外国の大使が、着任の際にはここを通るわけですが
この景色を見せるというのは外交に非常に効果があると感じています。

最後に朝食です。
1人3000円近くするという
やたら高額な朝食なのですが
朝食をウリにしているだけあり
本当に美味しいです。

この朝食を食べるためだけに
もう一回泊まってもいいくらい。


メニュー自体は、どこにでもあるような和洋食のビュッフェなのですが
とにかく、ここの料理の美味しさがびっくりするくらい美味しい。
値段を考えると朝食抜きにしたくなるところですが
折角、このホテルに泊まるのであれば、絶対に朝食は食べてください!
というか、朝食だけ食べるようにしてほしいくらいです。

この朝食を食べられれば一日元気が溢れてきそうです。

人生90年を逆算して考える

先日読んだ田村耕太郎氏著の
君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?」について、
ちょうど講演する機会があるというので早速聞いてきました。

彼の講演で、僕の心に残ったのは
「人生150年の時代がくる」
「逆算して考える」
「最悪のシナリオを想定しておく」
「個人ブランドを構築する」
といった言葉です。
彼の講演を聞いた後、数日間いろいろと自分の考えを整理していのたですが
上記のキーワードがヒントとなって、これまで自分の中にあった
説明しきれない違和感がクリアになりました。

それは「老後の備え」という幻想です。
保険会社から老後に備えて年金保険の加入をすすめられる事があったのですが
これまで、どうしても年金保険を支払おうという気になれませんでした。

整理して考えてみれば、それは自分が老後は年金をもらって
働かずに不自由のない暮らしができると信じていないからでした。
今の日本の年金制度は破たんが近づいてきており
早急な改革が必要であることは多くの日本人が認識しており
その改革が遅々として効果を発揮していないにも関わらず
老後に関するビジネスやサービスが公的年金制度を前提としているのに
とっても違和感を感じていたわけです。

田村さんの話を聞いて考えを整理したことで
自分が老後と呼ばれるようになる時代においては
年金で暮らせるという状況自体が甘い見通してであって
最悪の状況として年金制度が崩壊して死ぬまで働かなければない
という覚悟をしておくべきだいう点がクリアになりました。

死ぬまで働くという事を考えると、
途端に「終身雇用制度」が絶対に存在しない制度だという事になります。
僕の知っている限り、実運用として定年制が無く
何歳になっても働けるだけ働ける会社というのは
極めて珍しい会社で、多くの会社で定年制があります。

今現在、僕が働いている会社にももちろん定年制があります。
となれば、60歳の定年になれば自動的に会社を解雇されるわけで
そのあとの15年~30年は別の何かをして
収入を確保しなければならないわけです。

ということは、当面転職の予定のないサラリーマンであっても
転職する前提で、死ぬまでどう働くということを
80代から逆算して考えていかなければならないということです。

で、僕が考えるところとしては
まず60歳で定年を迎えてから新しい何かを始めるというのは
周囲の評価以上に本人のエネルギーとして難しいと感じています。
60を過ぎてから新しい事を難なく始められる人というのは
これまでも新しい事にチャレンジし続けてきていて
新しい事へのチャレンジそものがチャレンジで無い人だという事です。

となると、それまでサラリーマンとして同じ会社で
ずっと40年近く働いてきた状況で新しい仕事を始めるというのは
実はとってもリスクの高いことのような気がしています。
60歳の人材を新しく採用しようとなってくれるとしたら
それは経営者であるか、特筆した実績がある人だけかと思います。

今の会社で経営層にまで出生する望みがある
あるいは個人ブランドを構築できる仕事に携わっているならば
定年まで同じ会社に居続けるということも選択肢になりますが
そうでないならば、もっと早い段階で仕事を変えて
少なくとも60歳を過ぎても同じ環境で働き続けられる
という環境を用意しておく必要があるのではと感がています。

じゃあ、それが今すぐか?と問われると
それもまだ早いんじゃなかろうかと考えています。

これは僕個人の話になってしまいますが、
今すぐ転職しようと思えば、転職することは出来ます。
でも、それは今と同じような条件であって
定年のある雇用であることには間違いありません。

会社を辞めるというのは大きなリスクを伴うわけですから
辞めるからには定年のない仕事を持てる見通しが必要です。
じゃあ、定年を無くすには何が一番いいかと考えると
やはり個人ブランドを築き上げて、バイ・ネームで仕事を採れる事
どこの組織に属していようが、僕という人間を信頼して
仕事を発注してくれる人を増やすことが大切と感じています。

幸いにも、今の自分のポジションというのは
仕事をしつつ自分を売り込むチャンスに溢れていますので
まずは目の前のお客様の期待にしっかり応えて
次からは僕を指名で仕事を発注してもらえるように
日々精進することが大切、と当たり前のことを
思い返す事となりました。

君はこんなにワクワクする世界を見ずに死ねるか!?

さて、僕の周囲で話題の
「君はこんなにワクワクする世界を見ずに死ねるか!?」
を読みました。

田村氏の性格がありありと出ているような勢いのある文章で
こちらも勢いいさんで1日で読み終えてしまいました。

結論から言えば、この本は高校生か就職活動の頃に出会いたかった本ですね。
おそらく、ターゲットとなる読者は高校生から若手社員くらいの
将来の日本をしょって立つだろうエリート候補の人たちです。

ちょいちょい、「扶養家族がいればチャレンジできない」とか
「結婚して、子どもが出来て、親が入院してたら」とか
今の僕の境遇をdisってくるあたり、
僕は世界を見ずに死んじゃうのかなと思ったり(笑)

で、この本が言いたいことを要約すると
「東大を卒業して官僚か大企業に就職」という
日本国内のエリート候補に対して
「おいおい、そんなの真のエリートじゃないぜ!?
 世界にはもっともっとハードな世界があるんだぞ」
と国内にとどまることなく世界に羽ばたけよと
発破を掛けている感じでした。

留学するならアメリカのアイビーリーグとかだよ
見たいなことがさらっと書いてあるわけですが、
そこに入学するのこと自体がどれだけ大変かって話しなのですが
少なくとも、この本がターゲットとしている若者は
その程度の入試を「頑張れば」突破出来るレベルの
学力を既に有していることが前提となっているわけです。
僕なんか相手にされていないわけですよ。

というわけで、一歩引いた感じで読んでいたのですが
内容はひどく賛同ができるものでしたので
是非ともエリート候補の優秀な若者たちには
この本に影響を受けて世界を目指してほしいですね。

で、この本はターゲットとしては高校生~新入社員くらいなのですが
本当に読むべきなのは、そんな若者の子どもを持つ親世代だろと思っています。

というのも、今の50前後の人たちからすれば
子どもが「オレ、ハーバードへ行く」とか言い出したら
「冗談は止めて、まっとうに東大へ行け」
って言っちゃいそうじゃないですか。
そうじゃなくて、「よし、がんばれ!」って応援してあげて欲しいですよね。

最後に、田村氏のようなエリート階層の「世界」ではないですが
日々の仕事で世界を感じている一サラリーマンとしては
田村氏の知っている「世界」とは異なった「ワクワクする世界」もあるよ
と言いたいですね。

そこは「訛のひどい拙い英語」と「国内では通用するスキル」と
「ワークライフバランスとビジネスキャリアの両立に悩む人々」が住んでいて
お互いに英語のコミュニケーションに苦労しつつ
そんな苦労をするからこそ連帯感も生まれたりして
ワクワクしながら活動できる世界なんです。

エリート階層でもなく、NPOが支援するような貧困層でもない
普通の人たちが普通に生活する「世界」も楽しいので
そういった楽しさを僕も何かの機会に
若者に伝えていけたらいいなぁ。

竹島について不利な事情も考えてみた。

オリンピックでの竹島アピールから大統領の上陸と、
今月に入ってにわかに竹島問題に動きがありました。
その中で、韓国が竹島を自国領だと主張する根拠に対して
有志による史料批判が多々行われており、
韓国が竹島を領有する根拠は崩れてきました。
一方で日本が領有する根拠については殆ど批判されず、
自分たちに都合の良い情報だけが抜き出されているように感じます。
竹島問題の歴史的経緯を語るのであれば、
自分たちの主張もレビューしておかないと
いざ国際司法裁判所で判決を、となったときに
韓国側の反論に対して適切な説明ができなくなる恐れがあります。

ということで、日本が竹島を領有していると主張する2大根拠について
自分なりに懸念点を考えて見ました。

1.1905年に日本が正式に竹島の領有を決定した。これに韓国は異論を唱えなかった
この事実は竹島に領有権を考える上で極めて重要です。
これまでに日本が四国の領有を決定したことはありません。
有史以来、日本領であることが明確だからです。
なので、竹島の領有を明確にしたということは
それまで竹島の帰属が日韓両国であいまいだったからに他なりません。
これは歴史史料を見ても明らかで、江戸時代までに文書は
竹島と書いてある島が鬱陵島だったり、
竹島を松島と記述していたりします。
つまり、1905年より以前の史料をどれだけ持ち出したところで
日本が明確に竹島を領有し支配していたという証拠にはならない
という判断がなされる恐れがあります。

また、日本の領有宣言は日韓併合の1910年より前であり、
当時の韓国政府は竹島を自国領と主張せずに
日本領有を黙認したという主張が多く見られますが
当時は日露戦争の真っ最中で仁川に上陸した日本軍が
朝鮮半島各地に駐留している状況でした。
そして何より1904年8月には第一次日韓協約が結ばれいて、
韓国の外交権は日本政府によって多く制限されていました。
そんな状況で果たして当時の韓国政府は
日本の竹島領有にノーと言えたのだろうか?
という疑問が残ります。
民法では、強迫などによって本人の自由意思でない契約をした場合、
その契約は破棄できると定められています。
つまり、日本の領有宣言が有効かどうかは、
当時の韓国政府が自由意思で反対することが出来たかどうかが重要で
第一次日韓協約が効果を発揮しておらず、
韓国は日本と対等な外交関係にあったことを証明しないと
1905年の領有も一方的な収奪と判断され兼ねません。

2.サンフランシスコ講和条約で竹島の韓国編入が認められなかった
さて、したり顔で説明されるこの根拠は完全に無意味なものですね。
だっれサンフランシスコ講和条約は韓国には関係のない条約ですから。
これは日本と連合国との講和条約であって当時日本領だった韓国は無関係ですね。
また、サンフランシスコ講和条約で日本が領有権を放棄した地域は
もちろんポツダム宣言に由来するわけですが
さらにいうとカイロ宣言という非公式な宣言に基づいています。
このカイロ宣言は米英中の3ヶ国だけで議論されたもので
正式に採択されたわけでも連合国の間でコンセンサスがとれたものでもないので、
竹島はカイロ宣言でどう定義されたかといわれても誰も発言できない代物です。
つまり、サンフランシスコ講和条約締結時点の竹島の扱いは
韓国領として認められていなければ、日本領とも決められていない宙ぶらりんの状況です。
もちろん、この後の日韓基本条約でも見事に先送りされいます。

という点を踏まえて韓国側が1905年の日本による領有宣言は一方的な収奪で無効であると主張し
現時点で竹島の領有については日韓両国で未確定となっているので
実効支配している韓国領であるとするのが妥当であると言ってきた場合に
1905年の領有宣言がいかに有効であるかを日本側が説明できるかにかかってくると考えていますが
僕には有効な反対論が思い浮かびませんでした。

正直、ここしばらくの竹島に関する日本の動きは常にリアクションです。
竹島が日本領であると主張するのであれば、奪還に向けた長期プランを打ち出し
韓国側の一挙手一投足に動じて過剰に反応することなく
粛々と奪還の準備を進めることが今のリーダーのやるべきことかと思います。
ウォンスワップを止めろというような、とりあえず手札を出してみよう的な行動は
カードゲームに負ける典型的なパターンのように感じています。

超訳百人一首が面白い!

今日の昼休みに本屋でたまたま見かけた
うた恋い」というコミックスが面白かったです!

百人一首をテーマに一首一首がショートストーリーで展開し
その歌がどういう意味を持っているのかを説明しているんですが
とにかく漫画としての完成度が高くて、
その歌を作者が詠んだときの気持ちが
すっと心に入ってくる感じです。

一首一首はショートストーリーなのですが
各巻である程度話に繋がりがあって
歌だけでなく読み手の人生なんかも垣間見えて
結構じーんときちゃいました。

加藤嘉一『いま中国人は何を考えているのか』

最近、我が家ではやっているのが加藤嘉一です。
日本ではあまり知られている人ではありませんが
「中国で最も有名な日本人」というフレーズであれば
聞いたことがある人も多いかと思います。

ウィリアム・H・マクニール著 『世界史(上)』

ここんとこ長距離移動が多かったので
移動のおともにと思って購入した本です。
最近、日本史に興味が偏りがちだったのですが
日本を知るにはやっぱり世界史を知らないと
どうしても日本視点になってしまうので
もう一度世界史を学びなおすために買いました。

任那日本府について

週末に「さかのぼり日本史」で白村江の戦いについてのビデオを見てから
僕の頭の中は半分くらい任那日本府についてで占められてしまいました。
というのも、任那日本府及び倭国の朝鮮半島での活動状況と
古事記や考古学の研究から浮かび上がってくる倭国の状況とが
どうにもうまく合致してこないからです。

平清盛「義清の死」をやっと見た。

出張行って以来、何かとバタバタで録画しておいた平清盛がなかなか見れませんでした。
というのも子どもが起きていると「怖い」といってチャンネル変えちゃうんですよね。
なので子どもを早く寝かしつけないといけないけど、一緒に寝ちゃってという日が続きました。

星座の由来

先日、娘が星座の絵本を貰ったので読んであげているのですが
なんというか星座の由来となったギリシア神話って
ロクでもない話のものが多くて嫌になっちゃいます。

平清盛感想~悪左府とコンプライアンス

遂に今週から悪左府こと藤原頼長が登場しました!
しかし、思ったより悪左府前回という感じでもなく
思ったより全うな人物のような感じでしたね。

また、清盛とは敵対しつつも信西とは共感しあう
といった雰囲気が出ていたのも面白かったです。
保元の乱まで、頼長と信西は方向性は違えども
今の政治体制を改めようという改革派であり
時に手を取り合い、時に対立しあうのでしょうね。

平清盛と百人一首

今週の清盛は先週とは打って変わって清盛の恋の話でした。
先週の最後で平時子(深田恭子)を見せておいて、
実は結婚相手は別でしたっていう見せ方は上手いですよね。
清盛の妻といえば、時子の印象が強いわけですから。

平清盛「西海の海賊王」の感想

「おれは海賊王になるぞ~!」は最高でしたね。
ここんとこ、中二病に罹った清盛に共感できないシーンが多かったのですが
ここにきて清盛が思いのたけをブチ負けることで、一歩成長できた気がしました。
ここから「面白き事も無き世を面白く」と覇道を突き進んでいくのでしょうか。

ベクトルで考えよう

自分が歴史好きで歴史を自発的に学んでいたりすると
学校での歴史教育であったり、ビジネス書で表現される歴史事実だったり
というのに一つ非常に気になるところが出てきます。

平清盛「海賊討伐」の感想

海賊討伐というサブタイトルでありながら
期待していた兎丸は出てきませんでしたね。
しかし、海賊船を宋船するというアイデアは秀逸でした。
和船から見た海賊船の大きさというものが
当時の常識では考えられない規模の海賊団である
っていうことをあらわしているかと思います。

海賊を侮って漁船で出航した忠盛たちを迎え撃つのは
それこそパイレーツオブカリビアンの世界!
これは来週の戦闘シーンが楽しみです。

二十四節季と太陰暦

明日はいよいよ節分です。
2月4日の「立春」を迎えると
よく「暦の上ではもう春ですが・・・」
って天気予報で言っていますね。

立春とかいいつつ真冬じゃねぇか!
っていうのが大方の意見だと思います。

立春が旧暦の習慣だから
現代の暦とはずれているんで
立春なのに真冬だと思っている人が
結構いますが実は違うのです。

庄屋制選挙制度とフューチャーセンター

先週末、地元での集まりの際に
選挙制度改革がどうこうと世間では話題になっているけど
日本の選挙制度は500年前から殆ど変っておらず
実態は「庄屋制選挙制度」だと話した事を
いくつか補足しつつ将来の展望と合わせて
ブログに書いておこうと思います。

平忠盛第4回の感想

平忠盛の第4回はいやぁ面白かったです!
あ、間違えたタイトルは平清盛でしたっけ。

なんて冗談を言いたくなるくらい
平忠盛役の中井貴一が恰好よかったです。
ここまで主人公の父親がフォーカスされたのって
大河ドラマでは久しく記憶に無いですね。

宝永地震と低成長時代

録画してあった「さかのぼり日本史」の宝永地震の回を見ました。
それまで新田開発による量的な農業生産量の拡大を軸に
高度経済成長の恩恵を受けていましたが、
震災と津波によって田畑に甚大な被害があり
新田開発にかわって1町あたりの収穫高の向上と言う
改善活動による生産量の向上に変わったという話でした。

平清盛「源平の御曹司」の感想

おそまきながら平清盛の第3回を見ました。
いやはや主人公に全く感情移入が出来ませんでしたね。
どっちかと言うと義朝の方が主人公ぽかったような。

新年あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます!
2012年もよろしくお願いします。

なんて書くと微妙に時期を外している感じですが
今年は1月23日は旧暦で1月1日になります。

歴史上の人物の評価の問題点

大河ドラマの舞台となると大きな経済効果が期待できます。
だからこそ、日本各地で地元の有名人物を大河ドラマに
という誘致運動が日本各地で起きているわけです。

そんな中、今年の平清盛での観光客誘致を狙っている
広島県でのPR活動について気になる記事を見かけました。

大河ドラマ「平清盛」での地域おこしが決して一筋縄でいかないわけ

こちらの記事では平清盛が、これまで悪役として描かれてきており
視聴者が主人公に思い入れしづらいのではないか
という点について懸念しています。

そんな平清盛について、どう再ブランディングしていくか
については非常に興味深いのでウォッチしていきたいですが
なぜ歴史上の人物に善悪という色が着いたのか
僕の考えをまとめた上で、ブランディング案を書きたいと思います。

平清盛の感想

先週の白河院と平忠盛のやりとに魅せられた
今年の大河ドラマ『平清盛』ですが
今週の第2話はちょっと消化不良でした。

露寇事件と鎖国について


録画しておいた「さかのぼり日本史」を見ました。
今月のテーマは「天下泰平の礎」でした。
10月に放送したやつの再放送でしたが
僕が、この番組に気付いたのが
11月だったので、楽しく見れました。

「平清盛」の「王家」呼称について


とっとダイアリーより転載

大河ドラマ平清盛で用いられていた「王家」という表現ですが
早速、2ちゃんねるとTwitterを中心とした層から
反日的だとか不敬だとか避難が殺到していますね。
この「王家」という表現について私見をまとめておきます。

ブログを始めるにあたって

先日、大河ドラマ『平清盛』で「王家」という表現が使われていた事について
別の育児ブログに「「平清盛」の「王家」呼称について」とポストしたところ、
多くの反響があり通常の10倍近いアクセスがありました。
そこで、調子に乗って歴史をテーマにしたブログを
2012年から新しく始めることにしました!